【東京都】もんじゃ焼きの発祥の地と誕生秘話

日本発祥のもの

もんじゃ焼き

発祥の地

東京都台東区浅草近辺

発祥期

昭和20年

考案者

関東下町の駄菓子屋

もんじゃ焼きの起源

「もんじゃ焼き」は、江戸時代末期から明治時代初期に食べられていた「文字焼き(もんじやき)」が起源だとされています。小麦粉を水に溶いた生地を鉄板の上で、文字や絵を描いて焼いた食べ物です。江戸時代には多くの文字焼屋台が存在しています。

文字焼きの起源は、安土桃山時代に千利休が考案した茶菓子の「麩の焼き(ふのやき)」に遡ります。麩の焼きとは小麦粉の薄い皮に砂糖や山椒味噌を塗って巻いた、形が巻物経典に似ていることから仏事用の菓子として使われていました。

江戸末期になると麩の焼きに使われていた味噌の代わりに餡を巻いた「助惣焼(すけそうやき)」が誕生。助惣焼は呼称あんこ巻きで、現代でも東京のもんじゃ焼き屋やお好み焼き屋で提供されています。また江戸麹町で売り出された助惣焼は、楽器の銅鑼で焼いた「どら焼き(銅鑼焼き)」と呼称されます。

明治時代になって助惣焼をベースに文字焼きが作られました。駄菓子屋の店頭で鉄板の上で文字を書き、子供たちに文字を教えながら売ったので文字焼きと呼ばれたのが、大正時代になってもんじゃ焼きと呼ばれるようになったそうです。ちなみに文字焼は、粉物料理のもんじゃ焼きやお好み焼きのルーツであるだけではなく、人形焼やたい焼きのルーツでもあります。

文字焼とは、小麦粉やうどん粉を水で溶いた茶わん1杯程度の汁に、黒みつやしょう油を加え焼いて食べます。東京下町の駄菓子屋で人気のお菓子でした。もんじゃ焼きと呼ばれる由来は、文字焼きのもじがもんじ、もんじゃへと変化してもんじゃ焼きになったといわれています。

今でこそもんじゃ焼きは、主食やお酒のおつまみなどで大人も食べる料理ですが、昔は駄菓子屋にある鉄板で焼いて貰って食べる子供のおやつでした。現在のもんじゃ焼きに近いスタイルになったのは、戦後の昭和20年代で東京都台東区浅草近辺が発祥地とされています。

物資不足の昭和20年代のもんじゃ焼きは、ソースや醤油で味をつけただけ簡素なものでした。戦後の経済成長に伴い、キャベツやスルメイカ、揚げ玉などの具材を入れるようになっていき、現在のスタイルを確立しました。1980年(昭和55年)のもんじゃブームで、月島にはもんじゃストリートが登場。もんじゃ焼はソウルフードとして月島の名物になりました。

元々子供が食す駄菓子屋のお菓子だったもんじゃ焼き。昭和40年くらいまでは下町を中心に数多くの駄菓子屋には鉄板が置かれており、もんじゃ焼きの特有の遊びとして鉄板の上で銀鳥ゲームなどをして楽しみ、駄菓子屋が子供たちの社交場となっていました。

月島は、明治時代の中ごろに、隅田川河口に大東京港を建設する計画のもとに造られた埋め立て地で、意外に歴史は古くありませんが、100年以上の歴史があることは確かです。大正時代から昭和の初めにかけて沿岸の鉄工所や機械工場などで働く労働者が月島に次々と移り住んできます。人口増加により長屋が多く建ち並び、商店街や路地、空き地は子どもたちの遊び場でした。

昭和時代から月島の人たちの下町グルメのひとつとして組み込まれていたもんじゃ焼き。もんじゃ焼きの文化が、昭和時代にすでに月島に根付いていたことは確かなようです。しかし、時代が進むにつれて駄菓子屋の数が減ってしまい、昔ながらの子供のおやつとしての駄菓子屋もんじゃを食する機会がなくなりつつあります。

もんじゃ焼きは、大阪・粉もん食文化のお好み焼きやたこ焼きと同様に大阪が発祥地だと思われがちですが、もんじゃ焼きが誕生したのが大正時代に対して、お好み焼きは戦後の昭和初期に誕生したとされています。東京が発祥地のもんじゃ焼きは東京下町近郊で長く愛され続け、月島の名物として有名です。

もんじゃ焼きの発祥の地マップ

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