【東京都】人力車の発祥の地と誕生秘話

日本発祥のもの

人力車

発祥の地

東京・日本橋

発祥期

1870年(明治3年)

考案者

和泉要助・鈴木徳次郎・高山幸助

人力車の起源

人力車(じんりきしゃ)の起源は明治初期の1870年頃で、「文明開化」の掛け声と共に誕生しました。人力車の創案・製造者は、和泉要助(いずみようすけ)、高山幸助(たかやまこうすけ)、鈴木徳次郎(すずきとくじろう)の3名だと云われています。

人力車は、明治から大正時代を中心に徒歩よりも高速な移動手段として用いられた人を輸送する車です。略して人力(じんりき)、力車(りきしゃ)、腕車(わんしや)と呼称されます。人力車をひく人を俥夫(しゃふ)、車夫(しゃふ)、もしくは車力(しゃりき)と呼称。

明治維新後、御所の賄い御用を務めていた和泉要助は、西洋の馬車をヒントに、人力を用いた乗り物をつくろうと思索。同じ頃、荷車を工夫して人を運べないかと思案している八百屋をいとなむ鈴木徳次郎と賄い御用の仕事を通じて知り合い、新しい車の製作で意気投合します。

和泉と鈴木は、車大工の高山幸助を誘って試作を重ね、試作品が完成すると3人連名で、雛型寸法書を添えて東京府に製造と輸送業務を出願して3月24日に営業許可を取得(3月24日は人力車発祥の日)。翌1870年(明治3年)3月、日本橋南詰西側の「高札場」のかたわらに[御免人力車処]ののぼりを出して営業を開始しました。

✶「高札場」とは、幕府や領主が定めた「法度(はっと)」や「掟書(おきてがき)」および「犯罪者の人相書」などを木の板札に書き、人目のひくように高く掲げておく場所

東京銀座の「諸車製造所秋葉大助」で作られていた当初は、、腰掛型、坐型、二輪、三輪、四輪など、いろんな種類の人力車で4本柱を立てた箱に車輪と屋根をつけたようなものでした。秋葉大助は車体に漆を塗り、車軸にバネをつけ、ほろや長いかじ棒を設けるなど改良し、明治8年には現在の人力車に近い形になりました。

営業を始めた当初は、客が恥ずかしがって乗らなかったため利用客は少なく、和泉要助は親類や家族を客に仕立て、近所中を引いて回った効果が成功し、段々利用客が増加。わずか3、4年の間に人力車は普及していきました。

西洋馬車よりも小回りが利き日本の狭い路地に適し、駕籠より速く、馬に乗るよりも料金が安かったため、人々の足として人力車の数は、明治5年には東京で一万台を超え、明治中期には全国で21万台以上も走っていたといわれています。

人力車が登場するまで、人々の交通手段と言えば徒歩のほか駕籠や馬、明治時代になって使われるようになった乗合馬車でしたが、人力車の登場に伴い1872年までに東京市内にあった1万の籠は姿を消し、人力車が日本の代表的な公共輸送機関に取って代わります。東京では市電やタクシーが登場する昭和初期まで存続しました。

人力車は大阪でも使われるようになり 、前述の秋葉大助の作った人力車は、大阪では「大助車」と呼ばれ好評を得ました。全国に普及した人力車とともに各地に中継地ができ、道路も整備されていきます。

明治・大正時代に人々の足として用いられ、文明開化の発明品ともいわれる人力車。明治4年の「専売略規則」、明治18年の「専売特許条例」の制定時に、和泉等は専売特許を出願しましたが、出願時に世に普及していたことを理由に許可されず、人力車は発明品として特許を得ることができませんでした。

明治・大正を走り続けてきた人力車も、鉄道や自動車の普及により、都市圏では1926年頃、地方でも1935年頃をピークに減少し、その座を自転車や自動車に明け渡したのです。

人力車の発明に中心的な役割を果たした和泉要助は「人力車の父」と称され、都内の善光寺と和泉の墓所のある長明寺の二カ所に「人力車発明記念碑」が立てられています。

人力車の発祥の地マップ

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