【長崎県】競艇(ボートレース)の発祥の地と誕生秘話

日本発祥のもの

競艇(ボートレース)

発祥の地

大村競艇場 長崎県大村市玖島1丁目15−1

発祥期

1952年(昭和27年)

考案者

笹川良一

競艇(ボートレース)の起源

「競艇(ボートレース)」は、日本発祥の公営競技です。1951年に「モーターボート競走法」が可決され、世界で初めて公営競技としての競艇が行われました。1946年に競馬の復活、1948年に競輪、1950年にオートレース、1951年に競艇が公営競技としてスタート。太平洋戦争後の地方自治体の財源の充足を目的に普及しました。

モーターボート競走法は「競艇法」とも呼ばれ、日本国内における競艇の開催や、競艇場毎の開催回数など、競艇に関する様々な規定が定められています。

競艇の産みの親である「笹川良一(ささかわ りょういち)」は、1949年(昭和24年)にモーターボート競走法制定について主要政党や関係各省庁、有識者などに働きかけを開始します。モーターボート競走法は1951年(昭和26年)に衆議院本会議で可決、参議院本会議で否決で成立せず、笹川氏の尽力で6月の衆議院で再議決がなされ成立しました。

笹川氏は、1952年(昭和27年)に社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与、1955年(昭和30年)には同連合会の会長に就任しました。赤字続きだった当初は廃止論が出されましたが、赤字が続いていた地方公共団体に私財を投じる一方で「競艇はやがて収益が出て、社会に大きく貢献する」と公言していました。

1951年に「モーターボート競走法」が可決され、各地にモーターボート競走場誘致の機運が高まる中、長崎県大村市長の長柳原敬一氏は、競艇事業の開催をいち早く決断。波の穏やかな大村湾は競艇の開催に適しているとして、地元の関係者と積極的に誘致活動を行なった結果、1951年(昭和26年)開催場所に選ばれました。「競艇発祥の地」碑の題字は 笹川氏の書です。

大村市長の長柳原敬一氏は、大村市民の公営競技・競艇の財政再建効果を求める多くの声や、戦災の影響が色濃く残る大村市財政再建の手段として、1951年に市議会の議決をへて競走場建設に着手し、翌1952年に長崎県大村市で記念すべき競艇の初開催が行なわれました。大村ボートレース場を皮切りに、ボートレース場は急速に増えていきます。

1952年(昭和27年)だけでも8場、翌年にはさらに7場が西日本で初開催を迎えました。操縦する選手やレースを運営する審判員等も多数必要になり、「モーターボート競争法」が制定公布されてから、わずか2か月後には選手・審判員の育成が始まりました。日本の高度成長とともに昭和50年代の競艇は、好景気に支えられ大きく躍進します。

1964年(昭和39年)に開催された東京オリンピック(ボート競技会場・戸田漕艇場)。戦後で娯楽が少なかったことや高度成長の好景気もあり、舟券の売り上げは毎年増えていきました。それらの収益は、自治体の財源となることで施設にも投資され、観戦環境の良くなったレース場にはさらに多くの人が来場するという好循環をもたらしたのです。

また、全国を転戦する競艇選手(ボートレーサー)にとって、交通網が整備される以前は、生活のかなりの部分を移動時間に占められていたそうです。東京オリンピックを機に新幹線など交通インフラが整えられたことにより、移動時間が短縮され地方間の移動が容易になりました。

太平洋戦争の終戦後、敗戦によって疲れ切っていたのは国民だけではなく、地方自治体の財政も同様でした。競艇(ボートレース)の誕生は国民の娯楽になり、なおかつ地方財政の再建にも貢献できる公営競技として高い評価を得ました。

競艇(ボートレース)の発祥の地マップ

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