【京都府】からくり人形の発祥の地と誕生秘話

日本発祥のもの

からくり人形

発祥の地

京都府京都市中京区

発祥期

658年

考案者

高陽親王

からくり人形の起源

古来、人形は神の依り代として生まれ、神聖なものとされてきました。
文献に見るからくり人形は、斉明天皇四年(658年)の「沙門の智踰が指南車を造る」とあり、これがからくり人形の始まりと言われています。
指南車を車につけると常に南を指す木造装置で、中国から伝来したものです。
カラクリだと思われる最古の図版は1090年頃に書かれた大江匡房の「傀儡子記」で、ここに人形を遣う芸人が登場しています。
からくりの歴史は意外と古く、平安時代から「今昔物語」に記述を見ることが出来ます。
最古のからくり人形は平安末期の「今昔物語集」に描かれており、桓武天皇の皇子高陽親王がからくり人形を作ったと記載されています。

17世紀頃の戦国時代には西洋技術(とくに機械時計に用いる歯車やカムなど)を応用したからくり人形が作られ始めました。
当初は公家や大名、豪商向けの高級玩具だったが祭礼や縁日などに見世物として大衆の目に触れると人気を呼ぶようになりました。

江戸時代になると、からくりは大きく発展しました。
歌舞伎町の大道具師として活躍したのが長谷川勘兵衛で、回り舞台、戸坂返し、ちょうちん抜け、宙乗りなどを生み出しました。
その後特に有名になったのが「竹田のからくり」です。
竹田近江は「多くの人を育てるような仕事をしたい」と願い、ある日子供たちが砂で遊ぶのを見て、からくり人形を思いつき、京都まで出向いたようです。
1662年、大阪道頓堀でからくり人形芝居の初興行を行い人気を博しました。

その後、芝居小屋で山本飛騨掾、伊藤出羽掾などの「手妻人形」が大ブームとなりました。
「手妻人形」とは糸を引いて表情を変化させたり、早替わりさせたりできる人形のことで、人形浄瑠璃の元祖です。
なお、カラクリとは「糸を引っ張って動かす」という意味の「からくる」が語源だとされています。

こうした日本のからくり史を集大成したような人物が、幕末に登場します。
それが田中久重、いわゆる「からくり儀右衛門」です。
田中久重は1799年、久留米のべっこう細工師の息子としてうまれました。
9歳のとき、自分にしか開けられない箱を作り、町の人々は誰一人開けることができないため評判となりました。
15歳で模様作成機を作るなど、子供の頃から発明家として名が知られていました。
20代のころから、田中久重は江戸や京都でからくり興行を行いました。
こうして田中久重は新しいからくりを発明していきました。

田中久重とからくり人形の出会いは自宅近くの五穀神社のお例祭だったといわれています。からくりの仕組みに魅力を感じた田中久重は自らのからくりを次々に発明し有名になっていきました。
彼が「からくり儀右衛門」と呼ばれるようになったのはこのころからです。
田中久重が生まれたころにはすでに細川半蔵の「機巧図彙」といったからくりの教科書とよべる書が出版されていたそうです。
そうした時代に生まれ、「からくり人形」に触れる機会が豊富にあった田中久重は自らの器用さもさることながらここまで成長することができたのではないでしょうか。

現在も江戸時代から続く、唯一のからくり人形師が名古屋に存在しています。
家系がからくり人形師で、現当主は九代玉屋庄兵衛さんという方が工房を構えている。
製造業者が拠点を構える名古屋を含む中部地方はものづくりが盛んなエリアです。
からくりの歴史になにか深く関係がありそうですね。
昔のからくりも接着剤などが使われていないので現在でも修復することは可能だそうです。
この「玉屋庄兵衛」ですが初代が京都から名古屋に移り住み、山車からくり人形の修復や制作に代々かかわり九代目まで継承されているといわれています。

そして代々受け継がれてきたからくりの種類は豊富です。
万年自鳴鐘、茶運び人形、弓曵童子、文字書き人形、からくりみくじなどなど、からくり人形の知識がなくとも知っている方が多い有名なからくりが豊富にあります。
現在でも「からくり展示館」というミュージアムが愛知県にあり、実物のからくりやからくりの歴史を見ることが出来るようです。

からくり人形の発祥の地マップ

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