【広島県】もみじ饅頭の発祥の地と誕生秘話

日本発祥のもの

もみじ饅頭

発祥の地

広島県廿日市市宮島町

発祥期

1906年(明治39年)

考案者

高津常助

もみじ饅頭の起源

もみじ饅頭は、1906年(明治39年)に和菓子職人の高津常助が作ったのがはじまりです。
高津は宮島の紅葉谷の入口にある老舗旅館岩惣 ( いわそう )に茶菓子を納入していました。

女将から紅葉谷の手土産になるようなお菓子を作りたいと相談され、試行錯誤してを完成させたのがもみじ饅頭です。
和菓子屋「高津堂」でも「紅葉形焼饅頭」として販売しました。
日が経っても固くならず生地がふんわりして美味しいと評判になり、行列ができるほどだったといわれています。
「紅葉形焼饅頭」は商標登録していましたが、高津は菓子組合長を務めていたこともあり宮島の名物になるようにと独占販売をしなかったことから、現在までつづくもみじ饅頭メーカーも誕生しました。
名前も「紅葉形焼饅頭」「もみじ饅頭」「宮島饅頭」と混在する状況にありましたが、大正時代には「もみじ饅頭」の名前が主流になったようです。
元祖である高津堂も「もみじ饅頭」として販売するようになっていました。
なぜ紅葉のかたちになったのかについては、初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文が関係しているといわれています。
宮島弥山の三鬼大権現を信仰していた伊藤博文は、内閣総理大臣を辞してからは宮島を度々訪れており、宮島での宿泊には岩惣を利用していました。
そして給仕してくれた娘さんの手をみて「なんと可愛らしい、もみじのような手であろう。
食うたらさぞ美味しかろう」と冗談を言ったことから、紅葉の形にしたというのです。
記録などには残っていないものの、伊藤博文は女好きというイメージが広く浸透していたので、そういうこともあるだろうと逸話として受け入れられていったようです。

もみじ饅頭を作った高津堂は、1960年代に製造を辞めています。
高津屋1代目の常助は職人肌な人物で、「技は見て盗め」と2代に直接教えることはしなかったようで、2代目は味を再現できず、先代の名を汚してはならないと1960年代後半には和菓子屋「高津堂」から「多加津堂」に名前を変え、対岸の宮島口へ移転し新たに酒店となりました。
その後、高津常助の孫が3代目として2009年(平成21年)に高津堂を復活させています。

もみじ饅頭は、当初はこしあんが入ったカステラ生地のみだったようですが、昭和初期には粒あんが入ったものが発売されています。
第二次世界大戦後になると、白あん、抹茶、栗あんなども作られました。
漫才ブームの1980年(昭和55年)には、広島県出身の島田洋七が「もみじまんじゅう!」と叫ぶと、岡山県出身の島田洋八が「きびだんご!」と返すB&Bのギャグで、もみじ饅頭が全国に知られることとなります。
現在では、チーズ、チョコレート、クリーム、角きりりんご、餅、クリームチーズ、芋あん、ラムネあんなど、多くの種類が発売されており、生地もメーカーによってふんわり生地やしっとり生地など様々です。
メーカーごとの生地の違いや豊富な種類の味を食べ比べも楽しいもみじ饅頭は、現在では広島を代表する菓子となっています。
中のあんだけでなく、揚げもみじ、もみじ饅頭ソフトクリームといったアレンジなどもあり、お土産だけでなく食べ歩きにも楽しい名物となっているのです。

もみじ饅頭の発祥の地マップ

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