【宮崎県】ひょっとこ踊りの発祥の地と誕生秘話

日本発祥のもの

ひょっとこ踊り

発祥の地

宮崎県・日向市

発祥期

明治時代末期

考案者

橘公行(たちばなきみゆき)

ひょっとこ踊りの起源

「ひょっとこ踊り」は、明治時代末期に日向市永田地区で眼科医をしていた橘公行(たちばなきみゆき)が、各地の神社で行う江戸時代の民俗的な神楽・里神楽(さとかぐら)を元に考案されたといわれています。笛と太鼓、鉦の織り成す軽快なリズムにのって踊る「日向」の名にふさわしいひょっとこ踊り。

橘公行身内の祝いの場で五穀豊穣、子孫繁栄の祈願で披露されていたひょっとこ踊りは、芸能として永田地区の青年たちに伝えられました。

宮崎県日向市財光寺にある五十猛神社(いそたけじんじゃ)の先代壱岐繁晴宮司(故)が、青年時代に橘公行先生(医師)から踊りを習ったのが、ひょっとこ踊り発祥のきっかけです。その頃の踊りは、考案者やお囃子の音を想起する橘踊りやピーヒョロ踊りと云われ、現在踊られているようなひょっとこ姿ではありませんでした。

壱岐宮司と塩見神楽の師匠・山田八五郎(故)の手によって、永田地区に伝わる物語と神楽から着想を得た、おかめ、ひょっとこ、キツネの設定にほうき踊りが加わった物語風に構成され、現在のひょっとこ踊りとして継承されています。

ひょっとこ踊りの物語とは、
「昔、おかめという大変美しい女性とひょう助(ひょっとこ)という夫婦が安産祈願のため、稲荷神社で参拝している時にきつねの姿のお稲荷様が現れ、おかめに目を奪われてしまいます。気を惹こうときつねが手招きをしながら踊り始めると、つられておかめやひょう助も踊りだし、境内に集まっていた村の若者たち(ひょっとこ)も一緒に踊りだします。」

踊りは腰を振らないのが特徴ですが、おかめに限り所々腰を左右にゆする独特の動作は、古来の日本女性の腰の豊かさと美しさの表現です。古来から日本人はヤタの鏡(三種の神器・宝鏡)等、鏡は神聖で霊力が宿るものと伝えられています。自然に踊りだしてしまうひょう助の顔の手前に差し出す手は、自分自身を写し出す鏡で、自分の人生の道を表す意味です。

「周りの若者たち(ひょっとこ)も一緒になって踊っていく」は、祭と人々の和を意味しています。「踊りで汚れた境内を1人の青年が竹ぼうきを持って踊りながら掃き清める」最後に踊るほうき踊りは、踊り荒らした境内に落ちたチリ(心の曇り)を掃除(祓い清め)するという動作で、全てを祓い清めるという意味の表現です。

厄年の年齢は時代や地方・場所によって様々な説があります。厄年は災難を迎える時期と云うよりも、人生の転換期として大切な時期です。永い伝統を持つ厄払いを迷信と疑うことなかれ、経験と蓄積により培われてきた祖先の知恵。由来も含めてひょっとこ踊りは、壱岐宮司が厄年を迎える男性たちに教えたのが始まりです。

日向市五十猛神社では42歳前後の厄入りでひょっとこ踊りを奉納し、厄払いをする伝統が1955年(昭和30年)から現在まで受け継がれてきています。

地域の活性化・伝統文化の継承・観光振興などを目指して、1984年(昭和59年)に始まった日向ひょっとこ踊り。ひょうきんな表情をしたひょっとこ達が体をくねらせながら踊る、塩見永田地区に伝わる郷土芸能「永田ひょっとこ踊り」を中心とした宮崎・日向市を代表する夏祭りです。

永田ひょっとこ踊りは日向市を代表する踊りとして1992年(平成4)に市の指定無形民俗文化財に登録されています。

お祭りのパレードでは、おかめ、ひょっとこ、きつね、それぞれの踊りのお面をつけ、全員が豆絞りの手ぬぐいを被り、赤い着物に白い帯を身に付けます。しっぽを付けたキツネがおかめを誘い出し、ひょっとこが続く。ひょっとこ面は口をすぼめたり、口を大きく開いたり、頬を赤らめたりと滑稽な表情とエロチックなしぐさが笑いを誘い、見る人を惹きつけます。

日向の夏の風物詩として定着した日向ひょっとこ夏祭りは、熱心なファンや市民によって次第に規模が大きくなりました。今では九州各県を中心に遠くは北海道から沖縄まで全国各地からたくさんの団体や個人が踊りに参加して、おかめ、ひょっとこ、きつねが笛や太鼓に合わせ体をくねらせて踊りながら街を練り歩きます。

初日・前夜祭の個人戦では、ステージ上でおかめ・ひょっとこ・きつねの各部門で演技力№1を競い、2日目の本祭りでは全国各地から集結した約2,000人が参加するパレードで、踊りの美しさやチームワークなどを競います。日向市がコミカル一色で染まる、大盛況の2日間です。
毎年8月第一土曜日に本祭り、前日に前夜祭が開催されます。

ひょっとこ踊りの発祥の地マップ

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