【京都府】寒天の発祥の地と誕生秘話

日本発祥のもの

寒天

発祥の地

京都市伏見区御駕篭町(おかごちょう)

発祥期

江戸時代前期

考案者

美濃屋太郎左衛門

寒天の起源

寒天は、江戸時代前期、京都市伏見の旅館、美濃屋での偶然からできたものと言われています。
江戸時代初期、旅館美濃屋に参勤交代で京都に立ち寄った薩摩藩が宿泊しました。
美濃屋の主人である美濃屋太郎左衛門(みのやたろうざえもん)が、提供した食事の余ったところてんを戸外に置き忘れます。
ところてんは夜に凍り、昼間には溶けて水分が抜け、しばらくすると、ところてんがすっかり乾いていることに太郎左衛門は気が付きました。
ところてんは、テングサやオゴノリといった海の藻を煮溶かしてから冷ましたものです。
太郎左衛門は乾いたところてんを再び煮溶かしてから冷ましてみました。
するとところてん特有の匂いもなく透き通ったものができたのです。
これが寒天で、当初は「ところてんの干物」と呼んでいたようです。

美濃屋についての記録はないものの、江戸時代中頃の書物『和漢三才図会』では寒天について「城州伏見の里にて之製す」とあり、伏見を紹介した書物『伏見鑑』では寒天について「元来、伏見にて作初る産物なり」との記載があります。
また、江戸時代から大正時代にかけて伏見の名物だった練羊羹は、煮溶かした寒天にあんと砂糖を加えて練り上げて固めたものです。これらのことから、京都市伏見区が寒天発祥と考えられています。

当初「ところてんの干物」と呼ばれていた寒天ですが、隠元和尚が寒天と命名したと言われています。
中国の黄檗山萬福寺(古黄檗)から招かれた隠元和尚は、第四代将軍徳川家綱にも認められて、京都に大本山黄檗山萬福寺(新黄檗)を建立した高名な人物で、インゲン豆の命名をしたことでも知られています。
中国語で寒天は「冬の日」「冬の、寒々とした空」という意味で、寒い冬に凍らせて作ることから、「寒晒心太(かんざらしところてん)」という意味で寒天と命名したのです。
寒天はその後、大阪や兵庫などでも作られるようになります。
江戸時代に兵庫県に行商に来ていた諏訪地域(長野県茅野市)の行商人が、寒暖差の大きい諏訪地域は寒天の製造に向いていると考え諏訪地方に寒天製造を広め、現在では長野県が一大産地となっており、天然寒天の角寒天については日本唯一の生産地となっています。

寒天は戦前には特殊産業として日本は世界の市場を独占していました。
寒天は微生物や生物組織を培養するための培地として需要があったのです。
しかし第二次世界大戦時、日本は輸出を禁止します。そのため欧米では自然に頼らず工場で生産する工業寒天が開発されました。
戦後、1958年(昭和33年)には日本でも伊那食品工業株式会社により業務用粉末寒天の製造が始まっています。

現在、寒天は幅広く利用されており、和菓子だけでなく洋菓子にも焼き菓子をしっとりさせたりつや出しなどに使われています。
チーズを容器から剥がしやすくするためにも使われたり、ゼリー・プリン、みつ豆など缶詰、調味料、さらには濃厚感や口あたりを良くするために飲料にも使用されています。
食用以外にも、培地、保湿効果を高める化粧品原料、薬のカプセル、歯形を取るための歯科用寒天印象剤(しかようかんてんいんしょうざい)、ペットフードなどで使われています。

寒天の発祥の地マップ

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