日本発祥のもの
なぎなた
発祥の地
兵庫県伊丹市
発祥期
1964年(昭和39年)
考案者
全日本なぎなた連盟
なぎなたの起源
「薙刀」または「長刀」と書いて「なぎなた」と呼称します。古来、なぎなたを武器にして「長い刀で相手を薙ぎ倒す」武道でした。現在は相手を倒すことが目的ではなく、心身を成長させていくのを目的としています。
なぎなたは社団法人全日本なぎなた連盟が多くの薙刀術流派を統合し競技化した、現代日本における代表的な武道の一つです。1964年(昭和39年)、全日本なぎなた連盟でなぎなたの名称が決定し、古武道から現代武道として新たなスタートを切りました。なぎなたは女性の武道というイメージが強いですが、競技人口比率の1割ほど男性が存在します。
なぎなた起源については、奈良時代後期「手鉾(てぼこ)」と呼ばれる、比較的短い柄武器が存在しており、これが改良されたものが日本最古の薙刀であるという説や、唐から伝わった武器・鉾(ほこ)であるなど、諸説存在しますが、薙刀が誕生した過程については、はっきりとはわかっていません。
しかし、平安時代の書物等に薙刀が登場します。平将門・藤原純友が起こした天慶の乱(938年)の合戦絵巻に薙刀・長刀が描かれています。牛若丸と出会った武蔵坊弁慶が薙刀をメインの武器にしていたことでも有名です。また、平安中期に源義家と奥州清原家との争乱(1086年)を記した「後三年記」に薙刀・長刀の記述が残っています。
長い柄に反った刃のついた「薙刀」の形状が確立したのは、平安時代です。薙刀は「菖蒲造しょうぶづくり)」と呼ばれる形状の刀身を、長い柄の先に付けたのがはじまりと言われています。なお、当時の造りでは刀身が軽量すぎて威力に欠けたため、鎌倉時代頃から刀身の身幅を広げて、反りを強くした形状に変わりました。
薙刀は、奈良時代から平安時代にかけて寺院の守護のために僧兵の武器として使用。当時、薙刀の長さを生かして戦場で人馬をなぎ払う、斬撃を目的とする武器として使用されたり、多数の敵を相手にする時や海上での戦いにその威力を発揮したと伝えられています。
鎌倉時代になると、名刀工として名高い長光(おさみつ)や、景光(かげみつ)、吉岡一文字助光(よしおかいちもんじすけみつ)なども手がけるようになり、精巧で鋭利な薙刀がつくられるようになりました。
個人戦が主体であった南北朝時代、薙刀は兵の武器として威力を発揮します。鎌倉時代末期から室町時代にかけて戦場の主要な武器になったものの、応仁の乱頃より戦い方が個人同士の一騎討ちから歩兵(足軽)による密集戦に変わると、やがて機能的な観点から槍に取って替わられました。
槍は威力も強く、突き・刺し・叩くというシンプルな使い方であるため、武術に長けていない歩兵(足軽)でも使いこなせます。いっぽう、振り回して使う薙刀は味方を傷つけることもあり、密集戦では不向きでした。さらに室町時代末期になると、鉄砲の伝来と共に徐々に衰退していきます。
室町時代末期には戦場での地位を槍に譲りますが、薙刀は長い柄を備えている分、刀剣(太刀や打刀)よりも遠くから攻撃することが可能でした。重力にしたがって振り下ろすことができるので、男性武将のような腕力を持たない女性にも使いやすく、護身用の武術として僧兵や武家の女子に継承されていきます。
武術と呼ばれた剣術や柔術、弓術などの戦闘技法は、長い戦乱の時代が終わり太平の世を迎えると、精神修養の目的とする新たな現代武道として発達していきました。なお、明治維新前に存在した武道は「古武道(こぶどう)」、明治維新以降につくられた武道は「現代武道(げんだいぶどう)」と呼び分けがされています。
薙刀もまた、日本古来の古武道「薙刀術」として復活を遂げ、女子の武道として発展していきます。戦後、GHQの武道禁止令をうけて衰退を余儀なくされますが、1955年(昭和30年)、日本の伝統文化であるなぎなたの復興を願う有志によって、全日本なぎなた連盟が発足。薙刀からなぎなたと名を変え、スポーツとして広まっていきました。