【神奈川県】かき氷の発祥の地と誕生秘話

日本発祥のもの

かき氷

発祥の地

神奈川県横浜市

発祥期

明治時代

考案者

町田房造

かき氷の起源

かき氷発祥の国は諸説ありますが、単一の国が発祥地ではないようです。ギリシャのアレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の時代や中国・殷王朝時代など、大陸各地でかき氷のようなおやつを食べていた記録が残されています。

日本でのかき氷の起源は、平安時代にまで遡ります。清少納言の『枕草子』第40段「あてなるもの」(上品なもの、良いもの)の中に、「けづりひに甘葛(あまずら)入れて、新しき金鋺(かなまり)に入れたる」という文章があり、訳すと「細かく削った氷に甘いつゆをかけて、新しい金属製のお椀に入れる」となります。この「けづりひ(削り氷)」が、現在のかき氷のことです。

冷凍庫のなかった当時、氷は冬の間に切り出した天然氷を「氷室(ひむろ)」で、夏まで保存。それを切り出して都まで運んだ頃の氷は、少しだけになっていたそうです。当時氷は貴重品だったため、高級品として貴族しか口にできないものでした。

砂糖のなかった平安時代に、最高の甘味料甘葛を高級品の氷にかけて食べた清少納言のかき氷は、とても高級で贅沢だったということになります。

江戸時代には氷を保存する技術も発達して、北国の氷を江戸まで船を使って運べるようになります。また江戸時代末期には、アメリカから「ボストン氷」と呼ばれる天然氷が輸入され、氷は江戸の庶民にも身近な存在になりますが、高級品・高額であることには変わりなく将軍家や大名、豪商など、特階級の人しか口にすることはできませんでした。

大衆に広まったのは明治時代に入ってからのことです。明治時代に入ると製氷機が開発され、全国各地に製氷所ができ氷を売る「氷屋」が増えたこともあり、氷が店や一般家庭でも簡単に手に入るようになります。しかし、今ではかき氷に当たり前の氷削機(ひょうさくき)はなく、鉋(かんな)で小さく削った氷のかけらでした。

1869年(明治2年)、神奈川県横浜・馬車道で町田房造が日本初の氷水店(かき氷屋)を開店(日本においてアイスクリームを発祥させた店)。アメリカで学んだ氷の製法などを生かして開いた店で、現在のように店でかき氷が販売されました。最初は腹に悪いという噂や、どんなものか分からず、なかなか売れなかった氷水でしたが、安全だと分かると爆発的な人気だったそうです。

1871年(明治4年)には、輸入氷ボストン氷に比べ良質で安価な五稜郭の外堀で生産した天然氷「函館氷」が中川嘉兵衛によって登場します。函館氷はのちに宮内庁御用達にもなりました。

ちなみに、かき氷の店先にかけられる「氷」と白地に赤く染め込まれた氷旗は、1878年 (明治11年)、内務省から氷製造人並販売人取締規則(粗悪な氷が販売される事を取り締まるために公布)により、氷製造業者(販売業者)に発給した営業許可証が元になっています。

1883年(明治16年)には、日本人による日本最初の製氷会社・東京製氷株式会社ができて人工氷の生産が拡大。今のようなかき氷の形になったのは、1887年(明治20年)に村上半三郎が発明したかき氷機(氷削機)によって薄く削った氷を食べられるようになりました。

1895年(明治28年)夏、氷店は東京や横浜では「5歩に1店、10歩に1舗」といわれるほど増え、かき氷は庶民的な食べ物となりました。昭和初期になり氷削機が広く普及し、かき氷が全国的に広まり大衆的な飲食物となります。氷を削る方法は時代とともに変化していますが、かき氷は変わらず食される夏の涼です。

第二次世界大戦(1939年/昭和14年)前は、削った氷に砂糖をふりかけた雪や砂糖蜜をかけたみぞれ、小豆餡をのせた金時が一般のメニューでした。戦後(1945年/昭和20年)は、かき氷専用のいちごやレモン風味のシロップが販売され定番メニューの仲間入りです。

かき氷の名前の由来には諸説ありますが、砕いた氷の欠けらを食べた「欠けた氷」から「かき氷」になったという説や、関東地方で砕いた氷のことをさす「ぶっ欠き氷」が「かき氷」になったという説があります。ちなみに、関東地方の他の呼称として 夏氷 ( なつごおり )や、氷水 ( こおりみず ) などがあり、西日本ではかちわり氷と呼ばれています。
かき氷は別名は「夏氷(なつごおり)」で、「な(7)・つ(2)・ご(5)おり」の語呂合わせから、日本かき氷協会は7月25日を「かき氷の日」に制定しました。この日になった理由がもう一つあり、1933(年昭和8年)7月25日にフェーン現象によって、山形市で日本最高気温の40.8度が記録されたからです。(最高気温記録はこのあと何度かぬりかえられています。)

かき氷の発祥の地マップ

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