【沖縄県】空手の発祥の地と誕生秘話

日本発祥のもの

空手

発祥の地

沖縄県那覇市

発祥期

1800年代前半

考案者

佐久川寛賀(さくがわ かんが)

空手の起源

空手の起源には諸説ありますが、中国留学中に中国武術を会得した佐久川寛賀が、琉球王国(現在の沖縄県)で古くから伝えられてきた独自の武術「手(ティー)」に学んだ中国武術を融合させ創造した武術が空手の源流とする説が有力です。
「手(ティー)」と区別するために「唐手(とうで、トーディー)」と呼ぶようになり、学校教育に採用された時に「からて」と読み替えられ、昭和に入ると武器を持たない「徒手空拳」の「空」の字に置き換わって「空手(からて)」になったといわれています。
発祥期については、佐久川の生年は諸説あるようですが一般には1786年ではないかとされており、20代(30代とも)に留学したとあることから、唐手の発祥は1800年代前半と推察されます。

唐手は、武器を持った相手から身を護るための護身の技術でもあり、素手で相手を一撃必殺で倒す技術でもありました。
主に琉球士族の間に伝わってきた門外不出・一子相伝の技術だったため、文献や資料などは残されておらず詳しいことはわかっていません。
琉球王国時代から活躍していた糸洲安恒(いとすあんこう)は、そうした門外不出・一子相伝の技術を、学校体育に対応できるよう型を改良したり新しく型を創作するなどしました。
1901年(明治34年)には沖縄の学校体育で採用され、沖縄県内に普及していきます。
東京で体育博覧会が1922年(大正11年)に開催されることになり、糸洲に指導を受けていた船越義珍(ふなこしぎちん)が沖縄県学務課の要請で出席して空手を紹介し、さらに柔道創始者の嘉納治五郎の協力により講道館で空手演武を行います。
大きな反響を受けた船越は東京に残って各大学や警察などで空手の指導をして普及に努め、その後多くの流派が誕生していきました。

全体重を乗せた攻撃を寸止めで決める伝統空手と、実際にダメージを与える実戦的な空手と大別されていくなかで、多くの流派が存在する空手に統一的な秩序をもたらすことを目的に「全日本空手道連盟」が1964年(昭和39年)に設立されます。
連盟が設立されたことで空手の競技化による試合制度の確立、整備、競技ルールの改良など環境づくりが進み、1969年(昭和44年)には「全日本空手道選手権大会」が開催されました。

空手は、明治時代には沖縄からアメリカ・中南米への移民によって伝えられ、戦後になると日本駐留中に空手を学んだ米軍兵が帰国後も空手を続けたことや、日本人指導者も積極的に海外で活動したことで、空手はアメリカや中南米だけでなく世界に広まっていきました。
極真会館創始者の大山倍達をモデルとした漫画「空手バカ一代」が海外でも人気となり、空手人気を後押ししたともいわれています。
現在では国内の競技人口は約300万人、世界空手連盟は194の国と地域が加盟しており競技人口は6000万人にもなり、東京オリンピックからは実施競技となっています。

オリンピックで実施された空手は伝統空手に分類されるもので、競技には「組手」と「形」の2種類があります。
「組手」は8メートル四方の競技場で1対1の体重別で行われ、攻撃の技は「突き」「蹴り」「打ち」の3種類です。ポイント制で3分の競技時間内に多くのポイントを取るか、8ポイント差で優位に立つかで勝敗が決まります。
「形」は攻撃技と防御技を一連の流れとして組み合わせた演武で、技の精度や力強さ、美しさを競い、7名の審判による採点方式です。

沖縄からはじまった空手は、受け・突き・打ち・投げを駆使して攻撃相手から身を護るための護身術であり、自己鍛錬の手段です。
「空手に先手なし」といった言葉には、礼を重んじ平和の武としての精神性が表されており、肉体だけでなく精神までも磨くことができると支持され、世界のKARATEとなっています。

空手の発祥地マップ

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