【茨城県】合気道の発祥の地と誕生秘話

日本発祥のもの

合気道

発祥の地

茨城県笠間市・岩間

発祥期

大正末期から昭和前期

考案者

植芝盛平

合気道の起源

「合気道」は、植芝盛平〔うえしばもりへい〕が、日本古来の柔術や剣術の古武道から発展させた総合武道(近代武道)です。合気道は、今から約八百年前に会津藩の御止め技として伝承された「大東流合気柔術」を起源とする武道で、現在の合気道は植芝盛平が、大正末期から昭和初期にかけて確立した歴史が比較的浅い武道です。

和歌山県田辺市元町(現・田辺市上の山)に生まれた植芝盛平(1883年~1969年)は、幼い頃から武道に励み19歳で修行の旅に出ます。大東流柔術を武田惣角(たけだ そうかく)から学び、日本武道の各流の武術の奥義を究めると同時に精神的な修行を行い、あらゆる苦行を重ねた末に合気道は大成されました。

植芝盛平の武道の名称は大東流に始まり「合気武術(1922年/大正11年)」になり、1931年(昭和6年)に現在の新宿区若松町に合気道本部道場の前身となる「皇武館((こうぶかん)道場」を創建します。1948年(昭和23年)に皇武会は財団法人合気会と改称。この時はじめて正式に「合気道」を呼称します。その初代合気道「道主」が植芝盛平です。

合気道とは、相手を倒すことだけを目的とした昔の武術とは異なり、自心の修練を最大の目的とし「気」という独特な観点で、相手の力に逆らうことなく、相手の力を自らに取り込んで一体化して相手を制する武道です。稽古では、仕手(技を掛ける側)と受け(技を掛けられる側)となって形だけを反復稽古しながら身につけ、試合形式をとりません。

開祖・植芝盛平の武道界における名声は高まり、相撲取りを投げたり、銃弾をよけたり、人間業とは思われない技で多くの武勇伝が残っています。現在では合気道と名乗った多くの流派が存在しており、開祖・植芝盛平翁の弟子たちの中から、その教えに独自の解釈等を加え分派し創設した流派や団体が存在しています。

現在、合気道の最大流派は間違いなく「合気会」でしょう。 合気会は世界130ヵ国に合気道を普及しました。 これは世界の約70%の国に合気会があるという事になります。合気会は、開祖・植芝盛平の合気道を継承している流派で、現在は植芝守央(うえしば もりてる)が道場主です。

「養神館」は、植芝盛平の高弟だった塩田剛三が創設した流派で、内閣総理大臣から公益財団法人として認定されています。塩田は合気道の真髄を見定め、基本を見出し、型を作りあげていきました。号令をかけての稽古や中心線を意識した「固い」稽古で有名で、機動隊の逮捕術に採用され、投げ技や当身などの攻防一体の体術が特徴です。

塩田剛三の実力は、ロバート・ケネディのボディーガードを一瞬に組み伏せる等、昭和の達人と称された実績が証明しています。

「万生館」は、開祖・植芝盛平より37歳の若さで合気道九段を允可された砂泊諴秀(すなどまりかんしゅう)が九州に合気道を普及することを目的として開設しました。現在では関東や関西等にも広まっています。「万生館合気道の呼吸力」として開祖・植芝が説いた心の世界を独自の形で実現させることに成功しました。

気の原理(心が身体を動かす)に基づいた合気道「心身統一合気道」は、植芝盛平の生前に10段位を許された弟子で、合気会師範部長を長く務めた藤平光一(とうへい こういち)が創始。以降、心身統一合気道を世界中に普及させ、多くの指導者を育成しました。また、氣の原理は幅広い分野で活用されており、スポーツ界では広岡達朗や王貞治への指導が有名です。

合気道発祥の地といわれている場所は何ヵ所かあり、代表的な場所は植芝盛平のゆかの地「田辺(和歌山県)」「綾部(京都府)」「岩間(茨城県)」「白滝(北海道)」の4ヵ所です。

和歌山県・田辺は、植芝盛平の生誕の地であることから、合気道発祥の地との仮説もあります。しかし、茨城県・岩間は、岩間に転居する直前に正式呼称が合気道となったことや植芝盛平自身が「合気道の産屋」と称したことから、合気道発祥の地としていは最もふさわしい場所と言われています。「合気神社」がある地でもあり、世界中の合気道家からは聖地のような場所です。

合気道の発祥の地マップ

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