日本発祥のもの
錦鯉
発祥の地
新潟県山古志地方(新潟県長岡市山古志・小千谷市)
発祥期
江戸時代中期
考案者
山古志地方で鯉養殖を行っていた人々
錦鯉の起源
錦鯉は、江戸時代中期に山古志地方で、真鯉からの突然変異で緋鯉(ひごい)が産まれ、観賞用に改良されていったのが始まりと言われています。
平地のほとんどない山古志地方では山の斜面の棚田で米作りをしていましたが、その棚田に水を引くためのため池が棚田の上層部にあります。
ため池に鯉を放ち、夏に孵化した稚魚を水田で育てる棚田養殖を行い、鯉を食用としていました。
山古志地方は新潟でも特に雪深い地域で陸の孤島になることもあったので、鯉は冬の貴重な蛋白源だったのです。
ため池の中、たくさんの真っ黒な鯉の中に、赤や黄色、模様のあるこれら突然変異の緋鯉(黒色素胞が少ない鯉)は非常に目立ち、珍しいものでした。
人々は観賞用としてさらに色鮮やかで美しい鯉を作ろうと交配・改良を始めます。娯楽の少ない農村で、観賞用の鯉は人々の楽しみでもあったのです。
交配・改良を重ね、江戸時代末期に鹿の子(白地に紅い鱗が並ぶ)、頭巾かぶり(頭半分が紅)、口紅(口の周りだけ紅)、明治時代には紅白(白地に紅の模様)といった品種が生まれます。
1912年(大正元年)には、生産者が成果を発表する場として、山古志地方で錦鯉の品評会が開催されています。1914年(大正3年)には東京で開催された万国博覧会で「越後の変わり種」として紹介され、観賞用の鯉は全国に広まっていきました。
観賞用の鯉は、当時は「変わり種」「色鯉」「花鯉」「模様鯉」などと呼ばれていました。
「錦鯉」と呼ばれるようになったのは、1917年(大正6年)に生まれた大正三色(白地に、紅と黒の模様)以降です。
この大正三色を初めて見た新潟県庁水産主任官だった阿部圭が「これはまさしく錦鯉だ!」と言ったからと言われています。
「錦」とは 種々の色糸で地色と文様を織り出した織物ですが、そのように美しく立派なものを「錦~」といい、「錦絵」「錦衣」といった使われ方をします。阿部圭が言った「錦鯉」とはまさに「美しい鯉」「立派な鯉」という意味になります。
1940年(昭和15年)頃には観賞用の鯉の呼び名は「錦鯉」として一般に定着していたと言われています。
その後も交配と改良は重ねられ、昭和初期には昭和三色(黒地に紅と白の模様で、胸鰭の付け根が黒)が生まれます。
第二次世界大戦で錦鯉は数を大きく減らしてしまいますが、それでもわずかに残った親魚から再び交配が始められ、1947年(昭和22年)には胸鰭が金色の黄金錦が生まれました。
昭和30年代半ばから40年代に錦鯉が一大ブームとなり高額で取引されるようになると、庭に池を作り錦鯉を放つのが豊かさの象徴とされたこともあったようです。
「泳ぐ芸術品」とも言われる錦鯉ですが、錦鯉とは品種としての名前ではなく、観賞用に改良されてきた鯉の品種の総称です。
錦鯉の品種は、細かく分類すると、現在では、100種類以上にもなります。
錦鯉は海外でも人気で世界各地に輸出されており、本来の鯉を表す英語の「carp」ではなく、日本語そのままに「koi」と表記され区別されているほどです。