日本発祥のもの
柔道
発祥の地
東京都台東区東上野
発祥期
1882年(明治15年)
考案者
嘉納治五郎
柔道の起源
柔道は、1882年(明治15年)、嘉納治五郎(かのうじごろう)が永昌寺の12畳の書院で道場を開いたのがはじまりです。
兵庫県の名家に生まれ成績も優秀だった嘉納治五郎は、小柄で虚弱であることがコンプレックスでした。東京大学進学後の17歳の時、身体が小さく力が弱くても勝てるという柔術を学び始め、天神真楊流(てんじんしんようりゅう)さらに起倒流(きとうりゅう)を極めます。
柔術とは古武道の一つで、戦場で「小太刀」(こだち)や「脇差」(わきざし)などの武器を手にした相手を倒し、身を守るための護身術的な色合いが濃いものです。戦場で武器を持たない状況に陥った場合に、甲冑を身に着けた敵と戦う技術であり、投げ技、捨身技、関節技・締め技、固め技などがあります。
流派によっては武器術や鍼灸を学んだり、徒手のみのもの、多人数を相手にするものなどがありました。
とはいえ、どの流派においても、相手を殺傷するというよりも捕らえたり自身の身を守ることを重視するものでした。
明治になり廃刀令も出され近代化のなか、柔術をはじめとする古武道は下火の時代ではありましたが、警察では鍛錬や捕縛技術向上のための訓練として行われていたようです。
嘉納治五郎は、天神真楊流や起倒流以外の流派にも興味をもちます。
流派ごとに得意とする技の良い点を集め改善し、技術・指導体系を現在の柔道の形にまとめあげました。
そして、21歳の時に永昌寺で道場、講道館を開きます。
当初の門下生は9名のみだったようです。嘉納治五郎は、まずは人としての「道」があり「術」は応用であると考え、柔術から「柔道」と改めました。
柔道を学ぶことを通して身体と精神の両面を鍛え、磨き、人間を完成させていくことを目的としており、実生活において鍛え磨かれた人間として社会の発展に貢献していくよう教えています。
嘉納治五郎のこの思いは講道館の理念「精力善用」「自他共栄」として有名です。
1895年(明治28年)に設立された大日本武徳会にも嘉納治五郎は参加し、指導者の育成や称号・段位制、審判法の確立、剣道や柔道、空手の型の統一など武道全体の発展に尽力します。
しかし第二次世界大戦後、GHQによって警察柔道の道場は閉鎖され、1946年(昭和21年)大日本武徳会は解散となります。
その後治安が悪化するに伴って、逮捕術の基礎訓練での必要性が改めて見直され、警察での柔道復活をGHQに申請し認められています。
道場を開くのと前後し、嘉納治五郎は大学を卒業し教育者となり、学習院教頭、熊本の第五高等中学校(現熊本大学)校長、東京高等師範学校(現筑波大学)校長など歴任し、灘中学・高校設立にも関わっています。
現在は中学校体育で必修となった柔道以外にも、教育者として水泳やサッカーやレスリング、ウェイトトレーニングなど様々なスポーツに関わることとなり、学校教育の中でのスポーツ指導者育成のあり方にも影響を与えています。
柔道だけではなく、教育者として尽力し、さらには日本での留生受け入れのための活動もしていた嘉納治五郎は、1909年(明治42年)に、推されて国際オリンピック委員会(IOC)委員となります。
度々ヨーロッパを訪れ委員としての活動の合間には、自ら形や技を披露して、ユーモアを交えながら「精力善用」「自他共栄」について語ったといわれています。そして
1964年(昭和39年)、男子のみですが柔道は東京オリンピックの正式種目となりました。
女子は1992年(平成4年)のバルセロナオリンピックから正式種目となっています。
当初は4階級で27ヵ国74名の出場でしたが、2021年(令和3年)東京オリンピックでは7階級で128ヵ国393名が出場するなど、人気の種目となっています。