【山形県】魚拓の発祥の地と誕生秘話

日本発祥のもの

魚拓

発祥の地

山形県鶴岡市

発祥期

江戸時代頃
1839年(天保10年)酒井忠発の魚拓が現存する最古

魚拓の起源

魚拓は、庄内藩(現在の山形県鶴岡市)で始まったと言われています。
墨を魚に直接塗ってその上に布や紙を押し当てて墨を写し取る方法と、魚の上に布や紙を乗せ、上から墨や絵の具で色を付ける方法とがあります。
現存する最古の魚拓は、1839年(天保10年)に作られた「錦糸堀の鮒(フナ)」といわれるもので、庄内藩の第9代藩主、酒井忠発(さかいただあき)が現在の東京都墨田区錦糸町辺りで釣り上げたフナの魚拓です。
酒井忠発は、庄内藩士たちに釣りを奨励していました。
一本の竹そのものを使う延竿(のべざお)として有名な庄内竿も、藩士が自ら作っていたものです。
より使いやすく、より大物を釣り上げることができるように、各々が試行錯誤し自分に合うよう数年をかけて作ったといわれています。

竿は1.5m程度の竿から、長いものになると7mあまりの竿までありました。藩士たちは刀同様に竿を大事にしたとの記録もあり、庄内藩の軍学師範であった人物の日記『野合日記』に「名竿は名刀より得難し」といった記載もあるほどです。

なぜ釣りを奨励したかについては、釣りが好きだったから、というわけではありません。
鍛錬のためでした。
長い庄内竿を担いで夜中に鶴岡市を出発し20kmもの山道を歩きます。
歩いた後に日本海の荒波に揉まれながら大物を狙うのです。
身体的な強さはもちろんですが、知識と戦略、チャンスを狙う忍耐強さやここぞの集中力も必要な釣りは、身体的な鍛錬だけではなく軍略を練ることにも通じると考えられました。
太平の世においても武士としての素養を維持するため、庄内藩では釣りを奨励していたのです。
より大きな大物を狙い、釣り上げた戦果としての魚を、改ざんできない確かな記録・証拠として魚拓は作られました。
魚拓は魚の拓本です。拓本はもともとは書物を写すために中国で生まれ、後に碑などの拓本が作られるようになりました。
日本には鎌倉時代に手法が伝わりますが、主に江戸時代に墓碑の拓本をとることが多かったようです。
魚の拓本である魚拓は日本独自のもので、現在でも大きな魚を釣り上げると記録として魚拓をとり飾ることがあります。
いつどこで、どんな仕掛で釣り上げたのか、魚拓は少しの自慢も織り交ぜつつ釣り仲間と盛り上がるための記録でもありますが、近年ではアクリル絵の具なども使われ非常に美しく、アート作品として魚拓を作成する人も多くなりました。
中国をはじめ海外でも魚拓が知られるようになり、「Gyotaku」で通じるようになってきています。

魚拓の発祥の地マップ

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